驢馬(ロバ)にゆられて 〜Silkroad旅行記〜 閑話休題part1#2

「ぽんこつオヤジのアウトドア三昧!」

◆ Silkroad旅行記 –閑話休題– #2 〜なぜ地名が変わったの? 編 〜
   ※タイトルの写真は「コルカタ市内の渋滞」

 🔲コルカタ=カルカッタについて
 インド東岸の大都市の名称を小中学校では「カルカッタ」と習ったと思います。当時は 英語表記では「Calcutta」日本語でカルカッタと呼ばれていましたが、現地のベンガル語ではコルカタと呼んでいたのです。「Kolkata」が現在の表記ですが、これも英語表記となっているため、正しい発音にはならないようです。
 旅行記の中ではインドに到着し駅前にたどり着くまでは、目的地をわかりやすくするためカルカッタと記載していますが、駅前に到着後はカルカッタにいることが前提になったので一応正しい表記のコルカタに変更して記載しています。

 コルカタは昔も今もインドの中心都市であり、インド最初の鉄道敷設の都市でもあったのです。
 17世紀のイギリスとの戦いでコルカタは大きく変貌し、中学校で習った記憶のある「東インド会社」なるものが1690年に設置され、イギリスの支配となったのでした。この後1756年に当時のムガル帝国がコルカタを奪還したものの、再度イギリスの攻撃によりコルカタは再占領されフランスの占領地をもイギリスは奪取し、そののちマドラスの「東インド会社」などと連携してインド全土を手中におさめ植民地とされたのでした。
 マゼランなどが活躍した大航海時代のスペインやポルトガルに対抗し、キリスト教のカトリック(スペイン・ポルトガル)とプロテスタント(イギリス・オランダ)の宗教戦争のとばっちり?で世界を取り合った結果のインド植民地化であったのです。

 その頃の日本は織田信長から豊臣秀吉、徳川家康へと大きく時代が変化し、江戸幕府の長きにわたる安寧の時代にあたります。信長の頃からキリスト教布教が強化され、秀吉が後押しをしたのち突然弾圧を始めたりしてキリスト教的には混乱の時代です。
 色々な説がありますが、当時のヨーロッパ列強(スペイン・ポルトガル=カトリック)は地球上の国や土地・資源を2国で半分ずつわけよう!と勝手に決めてぶん取り合戦をしていたわけです。その当時の後発国イギリスが負けじとぶん取り合戦に分け入ってきた結果が、キリスト教布教の競争でもあったわけです。カトリックvsプロテスタントの図式が地球規模で展開されたのです。
 ともあれ、ヨーロッパの様々な思惑がインドを揺れ動かし、中国を混乱に陥れ、はたまた「アラビアのロレンス」のような工作員がエジプトやアフリカ・中東を謀略の渦に陥れたわけです。その結果当時の途上国(ヨーロッパ的価値観においてですが)であったアジアや中東・アフリカに対し、その土地土地の風俗や風習・文化を破壊し今風のあえて言えば欧米的な風俗・価値観・文化?を強制して今日の世界のカタチとなったのです。もちろん当時の日本も長年の鎖国により、立派な途上国であったワケですが…
 話しがどんどんあらぬ方向にズレまくってしまったので、なんとか元に戻りましょう。
 アレヤコレヤのそういった事情?でインドはイギリス統治領の英語圏として発展したため、発音しにくい地名などが英語に置き換えられたりして本来の名称と違ってきてしまったのです。これをインド独立の前後の、様々な活動(イスラム教やヒンドゥー教などの対立や分離独立など)でインドは混乱の時期となり、2000年代頃からようやく現地語読みの地名復活となったのです。1700年代から1900年代の世界情勢の移り変わりは文明史的にも非常に興味深い時代ですが、割愛しないと先に進みません…それにしても文明史や言語学・地政学は興味がつきません。

 旅行記のはじめは「カルカッタ」と書いていて、途中から「コルカタ」に変わったのはこういった事情が背景にあったワケです。地名呼称変更の背景説明からドンドン脱線しまくり、世界史の話のようになってしまい申し訳ありません。
 じつは“何故シルクロードを旅するか”についてをまだ語っていません。これもまた脱線だらけになりそうなので、次回の「閑話休題」でお話ししたいと思います。

       ◎大好きだった  梅棹忠夫先生の『文明の生態史観』
文明の生態史観

       ◎40年前の手書きの「silkroad計画書」
          …”らくだ”が逃亡・死亡時の対処も検討している
silkroad計画書

   … つづく

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