驢馬(ロバ)にゆられて 〜Silkroad旅行記 #1〜#10” まとめ①
「ぽんこつオヤジのアウトドア三昧!」
◆ Silkroad旅行記 #1〜#10 まとめ①
※タイトルの写真は往路ルート ”羽田〜韓国〜台湾〜香港〜バンコク〜コルカタ”
むかしむかし、好奇心旺盛な若者が東京におりました。
若者の名は「クマ太郎」と言います。クマ太郎ともう一人「ヨシ之介」の二人の凸凹コンビが、はるか昔のシルクロードをひたすら西に向かって歩き始めました。
それは今からおよそ40年前の、寒い冬の日の羽田空港が旅の始まりでした。
クマ、ヨシの二人とも19歳の若造で、それまで日本を一歩も出たことはありません。その当時の日本では外国旅行に行った人は、「洋行帰り」と呼ばれ奇人変人扱いされるようなこともありました。
もちろん二人とも英語はからきし話せず、そもそもほとんど外国人を見たこともありません。東京生まれの東京育ちといっても現在の日本とはかなり様子が違っていたのです。
まずはシルクロードに旅立つ前にどんな準備をしたか、簡単にお話しします。
40年前にはインターネットも携帯電話もありません。何をするにも図書館や黒電話であちこちに問い合わせをして調べるのです。
初めて海外に出て行くには何が必要か・・・
パスポートを取らねば!
ビザが必要な国はどこだろう?
ビザってどうやればとれるのか?
大使館はどこにある?
そもそも勝手に行っていいのだろうか?
今なら気軽に簡単に手配できる事が、ひとつひとつ調べて行かないとわからなかったのです。ただ救いとしてはOBの先輩が海外遠征に行った時の話を聞いていたため、おぼろげながらも手順の見当がついたということでした
パスポートはなんとか取れた。
次はビザだけどインドとパキスタン・アフガニスタン・イランと、馴染みのない国ばかりでやや途方に暮れていたわけです。そのあと大使館の所在地を電話帳!(昔はよく使いました…)で調べて手始めにおそるおそるインド大使館に行ったのです。
皇居千鳥ヶ淵近くにあった「インド大使館」にこわごわ出掛けて行くとひっそりと静まり返り、ビザを取りに来る人は皆無で入口フロアにも誰もいない・・・
うろうろしているとコワモテのインド人らしき人が出てきて、英語!で話しかけてきたではないか。あとから知ったのですが、特にこの方がおっかない顔をしていたわけではなく、インドの方々が全般的に「鋭い眼差し」である事がわかったワケでした。
ビザはその場でスタンプを「ポン」と押してもらえるものと考えていたら、なんと2週間も待たねばならないと聞き、クマとヨシの二人組は一気に慌て始める事になったのです。
何故ならいくつものビザを取るのに、1カ国2週間もかかったら出発予定日を過ぎてしまうではないか!!ここから慣れない英語での悪戦苦闘が始まりました
まずはインド大使館になんとか1週間で交付してくださいと頼み込み、次のアフガニスタン大使館では3日でください!と無理を言い、ジタバタと大騒ぎをしながら4ヵ国のビザを15〜16日で取る事に成功し、ギリギリ出発日に間に合わせる事が出来ました。
アフガニスタン大使館は日本人の美人秘書さんが事情を察して大使にお願いをしてくれ、10日間の一気短縮を実現できたのがギリギリ出国に大いに貢献したわけなのでした。
当時の為替の状況も今とは様相が違っていました。平成27年6月では1ドル124円前後で推移しています。つい先頃までは1ドル100円とか80円とかの円高になっていましたが、約40年前は1ドル360円がようやく解禁になり、1970年代半ば頃は1ドル300円程度と今と比べるとかなりの円安でした。
シルクロードに行きたい!バンディ・アミール湖を見たい!いくらかかるのだろう?だけど金が無い!どうしよう…
どんなアルバイトが稼げるのか?アルバイトひとつでは間に合わないかも。早く貯めたい!二人は無い知恵を絞り、盲めっぽうそれぞれのアルバイトに突入するのでした。
クマは「カメラマンの助手」と「ヨット雑誌の編集」、おきまりのアルバイト「喫茶店ウェイター」の3つを掛け持ちでこなすのでした。この時の「ヨット雑誌の編集」がのちのちのクマの稼ぎに役立つこととなります。一方、ヨシはひたすら「喫茶店ウェイター」を2~3ヶ所掛け持ちです。当時の時給は@270円〜@300円でした。
クマとヨシは必死の思いで貯め込んだアルバイト代、1100ドルと日本円10,000円(合計約35万円前後)を持ち、片道だけの格安チケットを握りしめ、どこか悲壮感を漂わせながら羽田空港に向かったのでした。
当時は国際空港といえば羽田空港であり、成田空港なんぞ影も形もありません。羽田空港も狭く汚く国際空港の体裁も整わないボロっちい田舎の空港に見えました。と、思ったのは国外に出てから外国の、それもヨーロッパの空港を見たからこそなのですが…
シルクロードにはどんな装備を持っていけば良いのだろうか・・・
軽量化を最大限に考え、削りに削った「シルクロードの旅」への道具類…
「何処でも何時でも即座に脱出ができるだけの量しか持たない」を念頭に、格安で買った中古の背負子に 何度もやり直し、ようやくパッキングしたのでした。
◼︎シルクロードの旅 装備品リスト◼︎
・背負子(いわゆるフレームパックの事)
・アタックザック(小型のサブザック)
・ダウンシュラフとシュラフカバー
→ヒンドゥークシュ山脈を越える事を想定し、大枚をはたき羽毛寝袋を購入
・山用エアーマット
・3人用ドームテント
・ホエーブス725(ガソリンコンロ)
・ホエーブス修理パーツと修理具
・ガソリン用ポリタンク
・固形メタ(着火用固形アルコール)
・コッヘルと食器(金属の小さいボールとスプーン等)
→何故か金属の小さいお椀をメンツと呼び、スプ ーンやフォークを武器と言っていた…!?
・コンパス ・細引き10m(直径4㎜程度の細いロープ)
・ヘッドランプと5セット程の電池
主な装備品はこんなところ。これらの他に着替え2セット(パンツ2枚!)と、ダウンジャケット。あとは英語辞書とパスポートとメモ用の手帳。
わずかこれだけの装備で1年近くのシルクロードぶらり旅に出掛けたのでした。
とにかくユーラシア大陸の端っこに到達しなければならず、乗り継ぎを重ねる旅の始まりです。
クマ・ヨシ2人組が格安チケットで最初に向かったのは「韓国・ソウル」でした。 韓国に向かうのですから乗った航空機は「大韓航空」なのですが、何しろ初めての海外旅行、初めてのジェット機に舞い上がっていました。
羽田空港から韓国ソウルまでは機内で情報誌をめくってみたり、窓から外を見て「何も見えずつまらんなぁ・・」と呟いているうちに、アッという間に着いてしまい、トランジットの時間つぶしにのんびりソウル空港でくつろいでいると、聞き取りにくい英語で(自分たちの聞き取り能力が悪いのですが・・)「バンコク行きは搭乗を締め切る」とアナウンスされ、目の玉が飛び出るくらい驚き、カウンターにすっ飛んで行って「乗ります!」と叫びつつ搭乗口に急ぎ、間一髪置いてきぼりを食わずに済んだのでした。
台北・香港経由バンコク行きの飛行機に乗り込み、さきほどの冷や汗も何処へやら、ふたたび凸凹二人組は余裕をぶちかますのです。
韓国の航空会社を使ったのですが、当時のスチュワーデス(今はキャビンアテンダントかな…)の方が日本語に堪能であるという可能性を全く考えず、目の前に座ったCA(非常口横の席でしたのでキャビンアテンダントの方々と向かい合わせ)の二人のどっちが可愛いかとか、性格が良い、いや根性が曲がっているとか、好き放題を普通の声(日本語)で話していたわけです。
とその時、CAの方が英語でどこまで行くのか、と聞いてきました。すると二人とも「カタコト英語もどき」でとりあえずインドまで行く、と答えたりしていました。たどたどしい英語もどきを理解してくれて、クマ太郎・ヨシ之介はワシらの英語が通じた!と喜んでいましたが、その後が大汗モノの事態となったのでした。
突然片方のCAの方が流暢な日本語で話し始めるではありませんか。こちらは目がテンです。さっきまで散々美人だ、ブスだ、性格が良い、根性が悪い、と目の前で酷評していたのですから…
日本語で話し始めたCAの方が、
「あなたたち、日本語は達者だけど英語はまったくダメね。大韓航空の人間はほとんどが韓国人だけど、日本で暮らしていた人が多いし自分も生まれてから高校生まで日本で暮らしたから日本語はよくわかりますよ。」と・・・
先ほどまでの威勢の良い悪口から一気にしどろもどろとなり、ひたすら謝ったのでした。
あれほど勝手な悪口を言っていたにもかかわらず、CAの方から「ソウルからタイのバンコクに到着して入国審査の時に、タイでは必ず宿泊ホテルを聞かれるから準備はしているの?」と優しく教えてくれ、さらに「自分たちは“エイジアホテル”に泊まっているから宿泊先が決まっていないならそのホテル名を伝えれば通過できますよ」と教えてくれたのでした。
さらにさらに、「バンコクの観光が不安ならホテルに来れば観光に付き合ってあげるよ」と、神のような一言まで添えて・・・
恥ずかしながら入国の時に “エイジア” のスペルがわからず、ローマ字で書いて入国審査官に「どこにあるホテルだ」と聞かれて、あーだこーだ騒いでいたら審査官が呆れて入国OKとなり、なんとか最初の関門を通過できたのでした。後からわかったことなのですが、エイジアとはASIAの英語読みであったと。。。
これほどヒドい英語レベルでシルクロードに乗り出したのでした。
バンコクでのCAの方々との話はまだまだ続きがあるのですが、少し先に進みます。
高級ホテルのASIAホテルに宿泊できるわけもなく、唯一の情報源である「地球の歩き方」に記載してあった「ドウチェスター・ホテル」とやらに行くことに決定し、こわごわタクシーに乗り込み真夜中のバンコク市内へ向かったのでした。
ここ「ドウチェスターホテル」は貧乏旅行者の泊まる宿としてはかなりの高級ホテルであり、この後のインド最初の宿と比較すると”雲泥の差”、”月とスッポン”というくらい立派なものでした。なにしろ「初めての海外・初めての宿泊・しかも真夜中かつ予約も無い」という、カイア外旅行超初心者には安心が一番でした。
若干タクシーにボラれながらも、疲れ果てホテルの親爺をタタキ起こし、真夜中なので値切るのも面倒くさくなり言い値で支払い、なんとか部屋に入れてもらい、交代でシャワーを浴びたあと倒れこむように眠りにおち、気が付いたときには翌朝の10時でした。
どうやら腹が減って目が覚めたようです。
どうせなら美味い物が食いたい!と、ASIAホテルまで行き、図々しくもCAの方々に朝飯をおごらせ、ASIAホテルのプールで泳ぐために海パンを買い、CAの皆さんがくつろぐビーチチェアまで押しかけ、ジュースやコーラを飲ませてもらい、さらには部屋にまで押しかけてルームサービスのマンゴーやスターアップルを食べさせてもらうわ、次の目的地インドまでの航空機のリカンファームまでやってもらうわというタカリまくりの午前中を過ごし、午後は買い物に付き合い(というか、勝手に付いていたのですが…)タイ大丸でTシャツを買ってもらったり、昼ご飯を食べさせてもらったり、実に甘ちゃんな海外生活第一日目を過ごしたのでした。
海外初日の甘ちゃん生活を無事過ごし、勝手に名残を惜しみながら我が宿「ドウチェスターホテル」になんとか帰り着きました。翌朝ホテルの親父は約束通り朝4時にモーニングコールでたたき起こしてくれ、早々にチェックアウトを済ませ空港に向かいました。
空港までタクシーに乗り80バーツ(約1200円)を支払ったのですが初日の金額の半分くらいで済み、「倍のボラレで済んで良かった、、」と考えることにしたのでした。しかし、この甘さが次に痛い目を呼ぶのです・・・
…次回 まとめ②に つづく